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女性当事者の視点から見た「松虫鈴虫物語」①~専修念仏とエンパワメント~

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(写真は石川橋から卯辰山)

1.松虫鈴虫物語(建永(承元)の法難)とは

専修念仏の教えを興した法然が土佐に、親鸞が越後に流罪となった「建永の法難」、「承元の法難」と呼ばれる事件があります。


これは「元久二年九月に興福寺が法然らの処罰を朝廷に訴えたことが発端とな」り、その後、「後鳥羽上皇が熊野参詣の留守中に、住蓮・(安楽房(筆者補))遵西の別時念仏・六時礼讃を聴聞した女房が感激のあまり勝手に出家した」ことから、「上皇の逆鱗に触れた両名(安楽・住蓮(筆者注))は処刑され、その後、専修念仏停止は広がり」、建永「二年二月九日には一向専修の輩が捕われ、同二八日には法然は土佐国、親鸞は越後国に配流とする宣旨が下った。」(「建永の法難」(Web版新纂浄土宗大辞典))とされています。

(元久元年は1204年、建永元年は1206年)


後にまとめられた法然の伝記では次のように描かれています。この中で、二人の御所の女房の名前は松虫・鈴虫とされ、現代にいたるまで「松虫鈴虫物語」としてお寺でのお説教で物語られています。なお、京都には松虫・鈴虫ゆかりとされるお寺(住蓮山安楽寺)もあり、松虫鈴虫物語をホームページで紹介しています。

「(前略)建永元年十二月九日。後鳥羽院。熊野山の臨幸ありき。そのころ上人の門徒。住蓮安楽等のともがら。東山の谷にして別時念仏をはじめ。六時礼賛をつとむ。さだまれるふし拍子なく。をのをの哀嘆悲喜の音曲をなすさま。めづらしくたうとかりければ。聴衆おほくあつまりて。発心する人もあまたきこえし中に。御所の御留守の女房出家の事ありける程に。還幸ののち。あしさまに讒し申人やありけん。おほきに逆鱗ありて。翌年建永二年二月九日。住蓮安楽を庭上にめされて。罪科にせらる(中略)六条河原にして安楽を死罪におこなはるる(後略)

(前略)女房ハ秘伝抄ニ松虫鈴虫二人の女房ト発心ノ因縁ナト具ニ載タリ彼抄及一書ニハ清水寺ニテ上人ノ説法ヲ聞テ御弟子トナルトイエリ(中略)性願房住蓮房安楽已上近江国馬淵ニ於テ誅ス(後略)」

「円光大師行状書図翼賛巻三十三」『浄土宗全書』第16巻 S49 P516517

2.「愚管抄」による事件の記録 

専修念仏の教団とは別の立場にある貴族は、この事件をどう見ていたでしょうか。

以下は、慈円(九条兼実弟、天台座主)の「愚管抄」です。

「建永ノ年、法然房ト云上人アリキ。(中略)念仏宗ヲ立テ専修念仏ト号シテ「タダ阿弥陀仏トバカリ申ベキ也。ソレナラヌコト、顕密ノツトメハナセソ」ト云事ヲ云イダシ、不可思議ノ(注:異様な)愚癡無智ノ尼入道ニヨロコバレテ、コノ事ノタダ繫盛ニ世ニハジャウシテ、ツヨクオコリツツ、ソノ中ニ安楽房トテ(中略)住蓮トツガイテ、六時礼賛ハ善導和上ノ行也トテ、コレヲタテテ尼ドモニ帰依渇仰セラルル者出キニケリ。(中略)院ノ小御所ノ女房、仁和寺ノ御ムロノ御母マジリニコレヲ信ジテ、ミソカニ安楽ナド云物ヨビヨセテ、コノヤウトカセテ、キカントシケレバ、又グシテ行向ドウレイ(注:同輩)タチ出キナンドシテ、夜ルサヘトドメナドスル事出デキタリケリ。トカク云バカリナクテ、終ニ安楽・住蓮頸キラレニケリ。」

(『日本古典文学大系86巻』P294295 岩波書店 S44


「不可思議の愚癡無智の尼入道」という慈円による女性蔑視の表現が気になりますが、「愚管抄」では出家したとは書かれておらず、女房が僧侶を宿泊させたとなっています。

また、「皇帝記抄」という書物には、はっきりこの事件を密通事件としてあるとのことです。(「寄事於念仏、密通貴賤併人妻、可然之人々女」(念仏に事寄せ、貴賤ならびに人妻・しかるべき人々の女に密通)(平雅行『日本中世の社会と仏教』塙書房1992 P311


「仁和寺ノ御ムロノ御母」とは後鳥羽上皇妃坊門局だそうです。(前掲『日本古典文学大系86巻』P295


「院ノ小御所ノ女房」とは、平雅行氏によれば以下のような女房たちがいたとのことです。ただ、教団の物語に出てくる松虫・鈴虫は、この女房たちとどうゆう関係にあるのかは定かではありません。

 「赤松俊秀氏は『仁和寺日次日記』に「院小御所女房伊賀局」とあることから(『続群書類従』第29輯下329頁)、『愚管抄』が言う「院ノ小御所ノ女房」(中略)を伊賀局であると断定し(同「『愚管抄』の再検討」〈宮崎圓遵博士還暦記念会編『真宗史の研究』永田文昌堂1966年〉)、旧稿の発表時には私もこれに従った。伊賀局はもと白拍子で、亀菊と称し、承久の乱の発端となった摂津国倉橋・長江庄の所有者である。乱後は坊門局とともに隠岐に随逐している。(中略)しかし後鳥羽上皇逆修進物注文(『鎌倉遺文』2162号)によれば、院の小御所の女房は伊賀局だけではなく、坊門局をはじめ「民部卿殿」「丈夫殿」「美濃殿」「丹波殿」「伊予殿」「美作殿」「丹後殿」「讃岐殿」がいたことがわかる。それ故、伊賀局が「密通事件」の当事者であった可能性は皆無ではないが、伊賀局と断定することはできないことがわかる。」(平氏前掲書 P326

3.親鸞の認識は

親鸞はこの事件をどう見ていたでしょうか。

藤場俊基氏は、『教行信証』化身土巻の「『大集経』の魔女離暗」の部分について、以下の注目すべき指摘をしています。

「この話は「魔王波旬が戻ってきたときに、娘の離暗を筆頭に宮中の魔女たちがこぞって菩提心を発して仏弟子になっていたという」内容で「これはあの安楽・住蓮、松虫・鈴虫の事件にそっくりの話です。(中略)こういう経文を、七十を過ぎた老人がわざわざ写してきて、『教行信証』に挿入しているのです。私は、この『大集経』の引文を追加したことが、松虫・鈴虫の事件と無関係だとは思えません。」

(藤場俊基『親鸞の仏教と宗教弾圧~なぜ親鸞は『教行信証』を著したのか~』明石書店2007 P747585


その『大集経』の引用とは以下の通りです。

「その時に波旬(魔王である魔女離暗の父(筆者注))、この偈を説き已るに、かの衆の中に一の魔女あり、名づけて離暗とす。この魔女は、(中略)言わまく、「沙門瞿曇は名づけて福徳と称す。もし衆生ありて、仏名を聞くことを得て、一心に帰依せん。一切の諸魔、かの衆生において悪を加うることあたわず。いかにいわんや、仏を見たてまつり、まのあたり法を聞かん人、種種に方便し慧解深広ならん。乃至 たとい千万億の一切魔軍、ついに須臾も害をなすことを得ることあたわず。如来いま涅槃道を開きたまえり。女、彼に往きて仏に帰依せんと欲う」と。すなわちその父のためにして、偈を説きて言わまく、乃至

三世の諸仏の法を修学して、  一切苦の衆生を度脱せん。

善く諸法において自在を得、  当来に願わくは、我還りて仏のごとくならん、と。

その時に、離暗この偈を説き已るに、父の王宮の中の五百の魔女・姉妹・眷属、一切みな菩提の心を発せしむ。この時に魔王、その宮の中の五百の諸女、みな仏に帰して菩提心を発さしむるを見るに、大瞋忿・怖畏・憂愁を益す」

(「『真宗聖典』東本願寺出版 1978 29刷 2015 P370371


親鸞の記述からは、御所の女房が出家にまで至ったかは定かではありませんが、この事件で流罪となった親鸞はこの事件を密通事件ではなく、彼女たちは一大決心をして専修念仏者となったと認識していたと言えると思います。

専修念仏者となった女性たちにとって、この教えはどんな意味を持っていたのでしょうか?

4.当時の女性にとって出家の意味とは?

 その前に当時の女性にとっての出家の意味を考えてみたいと思います。前述の「愚管抄」等では、この事件を女性と僧侶の密通事件ととらえています。しかし罰せられた側である法然教団側が後にまとめた前述の史料「円光大師行状書図翼賛巻三十三」では、女性たちは出家したことになっています。少なくとも罰せられた側の視点では、女性が出家したことがリアリティのある物語であったからこそ、そうした物語が語られ伝えられたのだと思います。なぜ出家がリアリティを持っていたのでしょうか。ここでは法然教団の背後にいたはずの多くの女性たちに注目したいと思います。当時のパワーを持っていた男性たちから「不可思議ノ愚癡無智ノ尼入道」(前述「愚管抄」)と蔑まれていた女性たちにとって、出家こそが事件の本質に関わる重要な点だったからだと思うのです。

 

 かつてNHKの教育テレビで「人間大学」という枠があり「源氏物語の女性たち」という10回シリーズの番組がありました。源氏物語の現代語訳をものにしている瀬戸内寂聴氏が、物語の内容を語っていくという番組ですが、その中で、光源氏をはじめとする男性たちが女性と関係をもつ行為について、いくつかのケースをずばり「レイプ」と発言しているのが印象的でした。

瀬戸内氏は言います。「私はこれまで『源氏物語』というのは、光源氏という魅力的な人物の一代記、そして華やかな恋愛遍歴を書いたものであると受け取っていたのですが、自分が出家してから、これは女が次々に出家していく話だということに気づいたのです。源氏が愛した女たちの七割ぐらいが出家している。これは大変異常なことです。(中略)男社会の中で、恋も結婚も自分の意思で選ぶことができない女たち。そういう女たちの嘆きを、そして女たちがどうやって救われていったのかを、紫式部は書きたかったのではないでしょうか。(後略)(内容一部抜粋・要約)」

(ビデオテープ『NHK人間大学 源氏物語の女性たち 第1巻 紫式部について 瀬戸内寂聴』(NHKソフトウェア発行1997)のパッケージ説明文から引用)

 

 瀬戸内氏の語りを聞いていくと、男性によって人生をかき回され翻弄される女性たちが、男性の支配から逃れる手段として選んだ行為が出家であったのだということが見えてきます。当時の女性にとって出家とは、自分の人生を支配しようとする男性から離脱し、自立した人生を送るための唯一といっていい方法だった可能性があります。当時の女性には、出家によって、男性に支配されるに人生から解放されたいとの切なる願いがあったからこそ、松虫・鈴虫が出家する物語が残されたのではないでしょうか。

 

 現代の事例になぞらえて言えば、パートナーの家父長的ふるまい(いわゆるモラハラ)につらい思いをしてきた女性が離婚を求めて家出する話や、DV被害に苦しんできた女性が、ある日とうとう決心して加害者男性の下から行政や保護団体の支援を求めて逃げ出す話と、とても似通っている話である気がしてくるのです。

5.DV被害者支援とエンパワメント

ここで話が現代女性の人権擁護の課題と重なってきました。

現代のDV被害者支援の現場においては、「エンパワメント」という概念が重要であるとされています。


「エンパワメントとは、フェミニストの視点から見たDV被害者支援に欠かせない概念です。エンパワメント(empowerment)は、エンパワー(empower)という動詞の名詞形で、「正式な権威や法的な力を与える、権能を与える、自己実現や影響を促進する」という意味があります。(中略)エンパワーという動詞は「em」と「power」という二つの言葉から成り立っています。この「em」は「in」と同じ、すなわち「中、内部の」という意味、「power」は「力」という意味です。エンパワーメントでいう力や権威は、誰もがその存在の内に生まれながら持っているものを指すのです。社会的抑圧や内的抑圧も含め、人は人生を歩むうちに様々な痛みを経験します。そして、生まれながら持っている「力」を奪われたり、過小評価したり、見失ったりしてしまうのです。支援者が特別な力を与えるのではなく、サバイバーがその内に秘めた「力」を取り戻し、あるいは認識して歩めるように」なること、これをエンパワーメントと言っています

(尾崎礼子『改訂新版 DV被害者支援ハンドブック~サバイバーとともに』朱鷺書房2015 P76

6.女性をエンパワメントした専修念仏

院の小御所の女房が、はたして出家したのかどうかは定かではありませんが、処罰された側では出家した物語として伝えられました

現代のDV被害者支援の知見を借りてくれば、教団側に残され伝えられた物語は、後鳥羽上皇の庇護下で上皇に奉仕するだけの生活を余儀なくされ、自分の人生を放棄していた女房が、専修念仏の教えに出会うことによって、自らの尊厳性に目覚めることによって、自らの内なる力を認識し、取り戻し(エンパワーメントし)、「これまでの自分の人生は後鳥羽上皇のための人生であった。これからはそうではなく自分の人生を自分のものとして生きていきたい」と決心をし、出家という行動に出た物語であると、言えないでしょうか。


なお、明治30年に出版された松虫鈴虫物語では、「我等が身の上は、三従とやらの障りあり、特に帝の御寵愛深く、我身ながら乍らも我身にあらず」とあり、明治の女性たちが家父長制の下で自分の人生を生きることができない状況を反映した表現となっています。

(野田憲雄『住蓮山安楽寺鹿ヶ谷因縁談』澤田文榮堂 明治30年(国立国会図書館オンライン)P13


物語は聞く側の支持・共感がないと語られ始められませんし、後世に伝わっていきません。女性が出家したという物語は、専修念仏が女性をエンパワーメントした物語として後世に伝えられてきたものだと思うのです。

 

(※ただ、専修念仏の教団が常に女性を抑圧から解放するものであったかどうかは別の問題です。これについては改めてまとめてみたいと思っています。)

 

(※専修念仏の教えが、なぜ個人の尊厳性を目覚めさせるのかについては、

大乗仏教で表現した人権思想「仏仏相念」https://myosyo1115.exblog.jp/32241150/

800年前の「人間の尊厳性」の表明https://myosyo1115.exblog.jp/32186639/

を参照してください。)


by myosho1115 | 2023-02-07 21:42 | 松虫鈴虫

後世に伝えたい加賀の国の伝統文化


by myosho